老いを楽しく
社会福祉法人「リデル・ライト記念老人ホーム」理事長
小笠原 嘉祐
みなさん、こんにちは。今日は菊池黎明教会の献堂五十周年にお招きいただき、その上に話までさせていただくということで大変光栄に存じております。よろしくお願い致します。
私はリデル・ライト記念老人ホームの理事長をしておりまして、リデル・ライト両女史顕彰会も支援させていただいております。また私はライト先生に抱っこしていただいたことがあるという、もちろん幼児期のことですが、貴重な経験がこざいます。
黎明教会が昭和二十七年にできましたころには、私どもの所には降臨教会の当初の建物がまだ残っておりまして、その後二年位して今の会堂に建て変わりましたけれども、以前の教会の建物は正面がスロープだったんですね。このスロープは車椅子の人や体の不自由な人が正面から入ってもらうためのものだとライト先生がおっしゃっています。私どもの降臨教会も黎明教会との深い関係の中で、また回春病院から現在のリデル・ラィト記念老人ホームまでの歴史との関連でお付き合いをさせていただいております。
さて、今日は五十周年の大事な日ですので、真面目に障害のお話をしようと思っていたのです。精神病の話をしながら、精神障害の場合、いわゆる「らい予防法」と同時代的な沢山の隔離収容の例もあるし、スティグマとして精神病に対する偏見に繋がっていくお話をしようと思ったのですが、今日はコンサートの前だからあまり難しい話はするなと、できるなら老人の話をやってくれとの指示がこざいましたので、急遽組み立て直しまして、お年寄りの話、高齢社会とは何なのかという話をさせていただきたいと思います。
みなさん、シーンとして真剣にお聞きでこざいますが、こんな状状態で一時閏も続きますと、この後の関先生のコンサートに差し障りますので、これは前座ということで気楽にお聞きいただきたいと思います。
高齢化社会という言葉がこざいます。そこから化が抜けて高齢社会になりました。そしていつの間にか超がついて、超高齢社会になりました。これは何となくそのようになったのではありません。ちゃんと論理的な理屈があるのです。六十五歳以上のお年寄りが人口の七%いるのが高齢化社会で、一四%になると高齢社会になるのです。更にもっと多くなると超高齢社会になります。日本は一四%なんてとっくの昔に過ぎてズバリ超高齢社会になってしまいました。
この超高齢社会を象徹するが如く、百歳の方が大変増えまして、今全国に何人くらいおられるかこ存じですか? 五千人はとっくに過ぎて、一万人を超えたのは数年前で、今や一万八千人です。そして極めて象徴的でありますが女性が多いですね。七割は女性です。
女性はしつこく長持ちをするんですね。それに比べて男性は花と散るという感じであります。どうして女性が長生きをするのかという話は後で触れます。
現在百歳が一万八千人ですが、昭和三十五年頃には二百五十人位だったそうです。昔は百歳以上なんて非常に稀です。稀といえば古稀といいますね。「古来稀なり」で古稀ですが、今や稀じやないですね。七十歳なんて多くの人がなりますから古稀なんて名前を変えて「古額」なんて名前にしたらいいかもしれません。
以前、泉重千代さんという方が百二十歳で、稀なる人の象徴みたいになりまして、重千代印の焼酎はできるは、重千代さんに触りに行くツアーまでありましたよね。しかし、今は百歳さえも当たり前になってきました。ブームになりましたきんさん、ぎんさん以外にも百歳以上の人がとっても増えてきて身近なことになってしまいました。
平均寿命は女性は八十四歳、男性は七十七歳です。
高齢まで生きることが当たり前になってきました。そして超高齢社会になると、年をとっても簡単にお年寄りと言えない時代がきたということを知っていただきたいと思います。
老人というのは今は制度上六十五歳です。しかし、六十五歳で自分が老人と思われている方はおられますか? 絶対的な老人の尺度はないのです。老人の日というのがありますが、これが日本で最初に開かれたのは昭和二十二年です。兵庫県のある村で老人会、老人の集いをやったんです。その時招待されたお年寄りは五十五歳からだったんです。私も今年この歳なのでギクリとします。昭和二十二年頃の平均寿命は男性が五十歳、女性が五十三歳です。ところが戦後五十年以上たって、六十五歳という年齢を老人と考えられないくらいに高齢の方が増えた。逆に考えればこんな豊かな社会はないのではないか。年寄りが増え過ぎたという人がいるが、長く生きることのできる人が増えているのはいいことで、当たり前に喜ばなければなりませんよ。
日本の近隣諸国で、こんなに高齢の社会はありません。我が日本は世界で最高の長寿国なのです。私の好きな、あの先進福祉国家のデンマークでさえここまでいかないですからね。だからこれほどの超高齢社会を達成した日本という国は大したものだ。すこいことを達成した豊かな国とも言えると思います。
ただ、確かにこれだけお年寄りが増えてくると、医療も福祉も生活全般が全部若小者に頼られますと、とっても辛うこざいます。介蓑保険を含めてこの辺をどうしていくのかがこれからの問題です。また老人は六十五歳からであるという考えは変わってくると思います。すでに高齢者を六十五歳から七十五歳までと、七十五歳以上とに分けよう、要するに七十五歳以上が本当の年寄りで、六十五歳から七十五歳の人はそこそこの年寄りとしようという話があります。六十五歳から七十五歳までをヤング・オールド、ヤングなオールドですよ。そして七十五歳以上をオールド・オールド、本当のお年寄りとしよう。ただオールド・オールドという患いかにも相当老けているという感じですが、いずれにしても七十五歳が将来の高齢者の分岐点のポイントになるでしょう。
こういうと、福祉や医療制度の後退に加担していると言われそうですが、老人の概念、イメージは変わっていくものである。必ずしもずっと六十五歳かどうかわからない、戦後すぐには五十五歳だったんですよ。
織田信長が本能寺で死んだ時には、「人間五十年」と言って死んだんです。その頃は五十歳は年寄り、そしてもっと昔にさかのぼれば四十歳を年寄りのはじめと言ったんです。だから惑わないから不惑の年と言ったんです。「四十になったら悪わず」と昔は言ったんです。それがどんどん延びていって六十五歳なんです。
だからおそらく今後は七十五歳になるでしょう。
もう一つは、アメリカから入ってきている考え方ですが、エイジズムという、年をとったからといって差別するなという、これは障害者差別や男女差別の問題と同等のことと考えられています。年をとっても年をとっているということだけを理由に差別してはならない、ということです。そうなってきますと、高齢だ高齢だといって特別扱いされるものではない。だんだんそういう時代になっていくのだろうということを申し上げておきたいと思います。老いのイメージが変わってくるであろうということであります。日本はそういう意味でも世界の先進国となっていくと思います。
そこで老いということでありますが、私が皆さん方先輩にこういうお話をするのは申し訳ありませんが、老いとはどういうことなのかということを少し考えて
みたいと思います。
突然の話ではありますが、エビは漢字で海老と書きますね。私は海老が嫌いですがそれはそれとして、要するに海の老と書きますけれども、何故エビを海の老と書くかこ存じですか? そうです。老というのは曲がっているのが象徴、老という漢字は腰の政がったお年寄りが杖をついている姿からできた漢字です。老というのは衰えていくイメージなんです。衰えて、折れ曲がって、そうなった状態なんだということから、老という漢字ができた。老のマイナスイメージです。
しかし、今日はそれとは違った老いのイメージがあるということを是非頭に入れてお帰りいただきたいと思います。まず第一に、老いということの中にあるのは経験ということです。老いとは老いること‥・それは「追う」追っ掛けることに通じます。老いというのは追っ掛けなければならないくらい先をいっている経験をもった存在を表わしています。語呂合わせみたいですけど、老いるといったらオイル、油だから心に火をつければ元気になるといった駄洒落とはちがいます。
老うというのは追うこと、追っていくくらい先にある経験なんです。最近痴呆が問題になっています。いの頭で考えたことはそのまま現実の中で達成しないと気が済まない。あるいは人を信じてとことん閑わらなければ気が済まない。そういういい人が、うつ病になりやすい。逆にいえばとても性格のいい、うつ病になりやすい人にこの社会は基本的に支えられているといっても過言ではありません。もっと言えば産業構造だってうつ病的状況で支えられているのです。
例えば、日本の車を考えてごらんなさい。外国の車に比べると数段緻密で、金太郎飴のように同じものを造れるでしょう。だから修理をするときにパーツがどれもすぐにぴったりと合うのですよ。これこそ典型的なうつ病体質と言えます。まさに日本民族はうつ病になるために出来上がった民族といってもいいくらいです。几帳面でいい加減が許せないのです。そして伝統的に滅私奉公という言葉があるように、自分のペースはさておいて人に尽くすという美風を持っています。
ところがこれがうつを招く近道にもなっているのです。言い方を変えれば、うつになりやすい人は「付き合いがよくて、頑張る人」と言えます。付き合いがいいのならそれは外向的で陽気な人じやないかと思われるかもしれませんが、付き合うということは、自分のペースを抑えて人に早くし合わせていくことでもありますから、付き合うということは一方では自分を不自由にすることでもあるのです。
そして、日本人は頑張るのが好きですよね。何があっても頑張る。新婚旅行の見送りをしても「頑張れ」ですもんね。何を頑張らせるのでしょうね。この頑張りというのはいいのですが、これはここ一番頑張ることで活きてくるのです。ところが、いつもいつも頑張らせようとすれば、疲れてしまいます。強弱がなくなってしまうのです。いい意味でのいい加減がないんです。これがうつへの近道になります。
ところが、真面目な人がいい加減という言葉を開くと、いいかげんとは何ということを言うのだと怒ります。ところで皆さんはお風呂に入りますよね。あつ湯が好きな人、ぬる湯が好きな人それぞれですが、どつちにしてもその人のいい湯加減で入りますよね。いい湯加減から湯を引いてごらんなさい。いい加減になりますでしょう。いい加減なんですよ。
自分にとってのいい加減を見つけること、自分のほどほどを知るということです。いい加減を身につけること、これがまず一番目です。
さて、二番目に大事なことは『表現をする』、あるいは『発散する』ということです。発散というと誤解されやすいですね。車を暴走して発散されると困ります。表現、自己表現です。付き合うということは、自分を抑えて自己表現を少なくすることにも通じます。
だからうまく自己表現する。これを悪度や言葉でうまくやることが必要です。人前でできないなら、河原に行ってあの野郎、こん畜生と言ってもいいのです。
表現の方法として趣味を持てと良く言いますね。だけどこれも良し悪しです。趣味を持つということは、ある意味では自分を不自由にする行為です。特にうつ病になりやすい人は、趣味に真面目に取り組むのですね。また、そういう人に趣味を持てというと、その帰り道でカルチャーセンターに寄られて、いろんな講座から必死で選ぼうと真剣に格闘してかえつて落ち込むのです。表現はあくまでも自分のペースです。
三番目は、『伝える、伝わる』です。コミュニケーションのことです。これは女性は上手ですが、男性はまだ上手じやない。コミュニケーションとは双方向が大事なのです。会社などで指示・命令がありますね。
これはコミュニケーションではありません。
また、阿呼の呼吸と言いまして「お−い、お茶」と言わずとも、座って咳払いをすればスッと必要なものが出てくるという、絵に描いたような関係でありますが、この関係に甘えていますと、最近流行の熟年離婿ということになります。永い間仕事を頑張って、退職して、花束を持って家に帰ったら、入れ違いに奥さんが出ていったという話が本当にあるのです。コミユ二ケーションは双方向、なんでもかんでもきちんとキャッチボールをしておくことが必要なのです。
一方で、単身赴任というのがあります。単身赴任は長生きしないなんてショッキングな話がありますが、これはコミュニケーションの問題もあるのです。その解決法、それは独り言です。何でもいいから喋りましょう。他愛のない話がコミュニケーションでは重要です。家に帰る前に今日は奥さんに何について語ろうかなんて考えて準備をする人はいないでしょう。この他愛のない話を一人の時もするんです。今日の飯ほうまいねとか、俺の料理はプロ並みだぞとか何でも独り言を言うのです。独り言は人に見られると変な人だと思われるので見せないほうがいいかもしれませんが、まあいいじやないですか。わゆる「呆ける」ということですが、この呼び名は感じが悪いですね。しかし代わりの言葉がなかなか見つからずに一般には良く使われていますが・・・。私のワープロは地方自治体と打っても「痴呆自治体」と出てきて因っているのですが…。
この痴呆の状悪になると、最近のこと、あるいは今やっていたことはとても忘れてしまいますが、昔のこと、あるいは昔経験したことはよく覚えられていますょね。今日の朝食べたことはきれいに忘れてしまつていても、昭和二十年八月十五日の玉音放送を聞くために暑い中ラジオの前に立っていたことは良く覚えておられますよね。
まさに痴呆の状悪でも経験の蓄積なんですよ。たくさんの定験から余分なことを削ぎ落として、自分のいちばん確信のところを残して生きていることが老いであって、.たとえ痴呆であっても老いということでは同じ価値の中にある。そしてその経験は追っ拗けなければならないほど前にある、ということをまず指摘しておきたいと思います。
そして同時に、老いとは結晶化ということだろうと思います。このことは苦から日本では具体的に使用していたイメージなんです。といいますのは大河ドラマを引き合いに出すまでもなく、例えば江戸時代には大老という地位がありました。その他に老中あり、家老があり、若年寄なんていう地位もあります。若年寄というのは若いくせに年寄り臭く振る舞うことの意味ではありません。あれは今でいうなら内閣官房長官みたいな地位で、大老といったらとことん年をとっている人を意味するのではなくて、総理大臣みたいな地位の人でしょう。大老といえばあの桜田門外で殺された井伊直弼が有名ですが、四十代の人ですよ。とてもじゃないけど大老、すこく年をとっている人ではない。
この場合の老いはいろいろな権力が集中していっている場所、地位、要するに結晶化していくところなのです。まさに老いとは結晶化であって、同時に経験が蓄積&れていることそのものを表しているのです。老いというのは弱っていく、老いさらばえる、朽ち果てていくことのみを意味しない。そして痴呆の状態でさえ、一つの結晶化した姿、生きざまではないのだろうかと思います。
ところが、老いに至るためには長く生きなければなりません。そしてそのことで経験が豊富になっていきますが、良くも悪くもいろんなことが、長ければ長いほど、いろんなしがらみ、いろんなことが加わっていつて、今度はその経験故に悩まなければなりません。
いわば経験過剰がストレスも多くなってしまうことになってしまうのです。年をとっていくのは、体もいたわらなければなりませんが、ス・トレスのために心も癒さなければならないのです。
さて、ストレスというのは良く使われる言葉です。
そしてマイナスイメージとして使われ、よくストレスを無くすといいますが、ストレスは無くなることはないのです。むしろストレスがあるというのは生きている証拠なんです。寝ていようが醒めていようがストレスはあります。いや、寝ている時にはストレスはないとおっしやるかもしれませんが、悪夢に悩まされることもあるでしょう。決して寝ている時にストレスがないとは言わせませんよ。ただストレスはずっと担いでいるのが辛いんですよ。だからストレスは無くすことはできないけれども、うまく凌ぐ、うまく解決させてしまうことが重要になってくるのです。
要するに、ストレスをうまく解消するにはどうしたらいいのかというのがこの後の話になるのです。
お配りしたプリントを見ていただきたいと思いますが、左のページはストレス解消法、右のぺ−ジは長生きの象徴であるきんさん、ぎんさんの生活の知恵十一力条です。これはどうぞゆっくりこ覧になってください。要するに絶対無くなるはずのないストレスを、どうすればうまく凌いでいくことができるのかというのがポイントなのです。
まず、ストレスの対処法の一番目は、なんと『いい加減に生きよう』ということです。なんといい加減な話だと思われるでしょうね。その怒りが伝わってきそうです。しかし普通日常で使う「あいつはいい加減なやつだ」のいい加減ではなく、よい加減なのです。
人は真面目に、真剣に生きていこう、あるいは物事にかかわろうとします。とても大事なことです。しかし人間は完全な生き物ではありませんから、百%正しく、或いは思いどおりに、あえていえば「真実一蹄」だけでは生きていけませんよね。それでも百%でがむしやらに生きようとして、がんばって生きた結果の一つがうつ病という結果になることがあります。
うつ病になりやすい人は、いいかげんがなかなかできない人といえます。とにかく真面目、几帳面、自分 四番目は「一人で背負わない。いつも背負わない」ことです。自分一人でできることはそんなにたくさんあるわけではないよということです。これも誰でもわかっているのだけれど、やめられないという事です。
月月火水木金金の世界でもあります。
これで象徴的なのはテクノストレスです。これは機様に人間が支配されて人間味を失うことと思っている人がいるかもしれませんが、むしろ典型的にはコンピューターから離れることができない状態を指します。
最近の職場はコンピューター一色です。その中にいると次第に休み時間も休日もその前にいないと落ちつかなくなり、不安になってしまうのです。
ずっと一人で背負うことでストレスは一段と解決されなくなります。そこで生活の中で切り替えをすることが大切です。休みの日には山に行け、海に行け、気分転換をしろ、ただしコンピューターを見に電気屋には行くな、電気屋に行って会社と同じコンピューターを買って自慢している人は、そのうちに私の外来に保険証を持ってやってくるのです。
次は『アパウト思考』です。話半分という言葉がありますが、話のすべてをいつも覚えている人はきっと
超能力者です。人の話なんて概ねいいところだけかい摘んで聞いているのですよ。もつとも全部聞いていない〕、あるいは忘れてしまう人もいますが。
例えば、連続大河ドラマを見ていても、最初から最後まで一字一句のがさず見たという人はいないでしょう。間にトイレに立ったり、居眠りしたり、電話がかかってきたり、極端に言えば最初と最後だけ見ても今日のは面白かったと思えるのです。これがアバウト思考に通じるのです。
話半分の世界です。しかし、半分だといい加減を嫌う人は許せないんですね。だから私はこう言います。
「半分五割がいやなんだろう。ならば六割にしてやろう」。六割なら試験はだいたい通りますし、安心できる数字です。この六割をコマーシャルベースにのせて大成功をしたのが焼酎のお場割りです。
六‥四というのは昔からあった普遍的真実と思われている方もいるかもしれませんが、あれは焼酎メーカーの陰謀です。六‥四のお湯割りにしたんです。七‥三でも五‥五でもいいんです。だけど六‥四のひぴきはいいんですよ。うまいですね。六というのは何かしら達成感があるんです。ろくなことはないと言います
が、六でいいんです。これから人の話を聞くときは焼酎の六‥四のお涛割りと思いつつ聞いてください。これがアバウト思考ということです。
そういうことも含めて、次に『自分のべ−スを大事にする』ことが重要です。最初予告しましたが、なぜ男性より女性のほうが長生きな.のか、それは自分のペースを作るのが上手なのです。男性の動き方は程よさにおいて女性に負けています。そして女性は今のところナンバー2タイプ的な、自分のぺ−スを大事にする動き方が上手です。しかしこれからは大きな差がなくなってくるでしょうね。男性、頑張りましょう。
その次に、『甘える』ということが重要であることを知っておいてください。甘えるという言葉にはマイナスイメージがありますよね。しかし甘えなければ人は育ちません。最近改めて子育てが問題になっていますが、甘えるという自然な感覚より、理屈っぼい理性的論理的感覚が優位に立って子育てがなめらかに機能していないようです。
甘えるということほ、自分の欲しいものを、相手にうまく表現して上手に引っ張りだしてくることです。
生きかたのしなやかさに通じることです。生きていく上では、このしなやかさと、そしてしたたかさをも必要となります。なにやらもっと人が悪くなるように勧めているようですが…。
結局、今日のお話の行き着くところは、ほどはどということ。ほどほどのバランスがストレス対処に重要であるという平凡な結論になります。そして、それを一言で言えば「いい加減」をうまく振る舞おうということです。いい加減なやつのいい加減ではなく、自分にとってのよい加減としてのいい加減を身につけていくことが重要であることを結論として、次のコンサートの前座としての「いい加減」なお話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうこざいました。 (収録=2002年川月加日 於恵楓会館)
「なお、この原稿は菊池恵楓園入所者自治会機関誌{菊池野}2003年2月号に掲載されたものです。」