19世紀、まだ日本に福祉という概念がなかったころ、リデルは花見に出かけた本妙寺でハンセン病患者の姿を見ました。時の政府が何の援助の協力もしない実状に驚き悲しむと共に、この病者の苦しみを救うことを決意します。


ハンセン病を救済するための病院をつくることを決意したリデルは、英国の親戚、友人知人に、計画を打ち明けて賛同と援助を求めました、中には敬意をもって援助した人もすくなくありませんでしたが、多くの者は、1外国人女性の力に及ぶことではないと反対しました。みずからの使命を確信していたリデルは、私財を投じてこの事業にとりかかったのです。


ついに明治28年11月12日、病院が開設。名前は、暗黒の人生に再び希望の春を回り来させることを念じて、回春病院と命名されました。
しかし日露戦争で日本が勝利すると「日本は強国になったので今後は応援する必要はない」と 送金が中止され、リデルは非常に困り、時の総理大臣大隈重信に、援助を求めました。
 大隈は渋沢栄一と相談して、日本橋の銀行会館で、画期的なハンセン病救済講演会を開きました。この時、リデルは、「日本が駆逐艦一雙の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と提言したことは有名であります。


姪のライトは、伯母リデルを助けるため大正12年来熊、昭和7年リデル永眠後は院長となり、リデルの意思を継承し、院内は勿論院外においてもハンセン病救済事業に寝食を忘れて努めます 、戦時中数々の迫害をうけ国外追放されながらも戦後すぐ帰国して日本の土となりました。


ハンセン病はもう不治の病では無くなりましたが、そのリデルとライトの精神は福祉のみならず、人間としての全てに通ずるのではないでしょうか。


発行 リデル・ライト両女史顕彰会

定価500円

お問い合わせ:リデル・ライト両女記念館096-345-6386

 2000年(平成12年)2月26日、リデル、ライト両女史顕彰会と社会福祉法人リデル、ライト記念老人ホームは、回春病院第2代院長であったエダ・ハンナ・ライト女史の昇天50年祭を行なった。2001年にはリデル、ライト記念老人ホームの創立50周年、さらに2002年にはハンナ・リデル女史昇天70年を迎える。我々の受け継いでいかなければならない先駆的な歴史のうち、ミレニアムをまたぐ一連の重要な節目の第一段階の行事であった。


エダ・ハンナ・ライト女史は、伯母ハンナ・リデル女史の精神をそのまま引き継いで回春病院を運営した。その人柄はおだやかで、慎しみ探かった。
事ある時には常にリデル女史の心を確かめて「伯母ならばどうするのか」を口癖にして決断をしていた。しかし一方では強い信念とともに激しい気性が秘められていたようにも思える。

このことは、昭和16年2月3日の回春病院閉鎖の折に残されたライトメモに表現されている。「政府は私から愛する忠者を奪い去った。5時には病院は空っぼだ!」すべての患者さんが九州療養所に連れ去られた夕方5時、いつもの習慣で病院を巡回していたライト女史は、誰もいなくなった病室を目の前にして、改めて激情が走り、たたきつけるようにその気持ちをメモに残したのだと思う。


 失意の中で、そして開戦直前であり、ほとんどすべての英国人が国外退去をしている中で、ライト女史は心ならずもオーストラリアに去った。しかし戦後ライト女史が再び回春病院跡地に住むことになるとは、おそらくほとんどの人は思っても見なかったことだったろう。彼女は日本に、そしてこの地に帰ってきたのである。もう一度くり返すが「帰ってきた」のである。自分の住むべき家に、そして伯母ハンナ・リデルと愛する患者さんが眠る納骨堂の側に…。帰ってきたという意識の強さ故に、その家の中の荒れた有様、失われた家具穎を見て、ライト女史はいつになく怒りを顕わにされたという。
彼女はすでに78才だった。


 ライト女史は帰国するにあたってオーストラリアのパースで「日本の土になるために帰る」のだと彼女の決意を述べている。この逸話については5年前に昇天された沢正雄先生が100年祭記念行事で行なわれた講演「ライト先生の祈りと心」に詳しく述べられ、当時の記念祭の発起人の方々に深い感銘を与えた。熊本には数多くの外国人先駆者が来訪しているが、「日本の土」になることを決意し、この地を終蔦の地とした人は決して多くはないことを是非錨記していただきたい。


 さて今回の記念誌には、その冒頭にライト女史の「遺言」と「お別れのことば」及び「絶筆」を掲げる。特に遺言は死の一年前1949年2月に記されたものである。回春病院の閉鎖によって、その後リデルから継承した財産は処分されているのだが、ライト女史は意識的であるのかどうか、ともかく財産として自分の手から離れていることについては無視している。あるいは気づいていないのかもしれない。


 彼女の認識では、病院が閉鎖された後、戦争の為に日英が敵対状況になった為に追放されて一時退去したのであり、戦争後、平和をとりもどした時に最愛のリデル女史と患者さん達のもとに帰ってきて、再びリデルから引き継いだ地に住みはじめたのである。決して引き渡された土地に仮住まいをしたのではない。もちろん財産処理については現在は社会福祉法人に引き離がれ、法的には解決しているのだが、ライト女史はこの遺言を通じて、この地は自分に正当に維承されつづけていることを表現したのだといえる。


 つまり、リデル女史が
999年の地上権ということを通じて、半永久的にこの地で福祉の先駆的実践を行なう決意を確かなものとしたことを受け継いで、今後その基盤をゆるがせてはならないことをこの遺言を通じてライト女史は訴えているのであり、そのこころを我々はきちんと受け継いでいかなけれはならない。そしてリデル女史とライト女史は、その基本にキリスト教精神、なかでも隣人愛−「分ち合って生きることのすばらしさ」をすえて、事業を行なっていたことを明確にしておきたい。

リデル、ライト両女史顕彰会 会長
社会福祉法人リデル、ライト記念老人ホーム 理事長                                  小笠原 嘉祐


愛と奉仕の日々

ーリデル・ライトの足跡ー

発行:リデル・ライト両女史顕彰会

定価500円

「出版に当たって」 

澤正雄先生は、リデル・ライト両女史の顕彰事業にとって、かけがえのない真実の「語り部」である。特に「愛と奉仕の精神」に貫かれた女史の思い出が、先生のクリスチャンとしての信仰を横糸として織りなす綾のごとく語られる時、それは感動をもって伝わってくる。リデル・ライト両女史顕彰会の準備をはじめる頃には思いもよらなかったほど大きな拡がりをもつ事業になった過程で、先生こそ最大の功労者であることは否定できない。


 澤先生が、ライト女史の遺言の中に記されている人物の一人であることは私の記憶の中
にあった。しかし、直接に先生との出会いのきっかけとなったのは、ライト女史との交わりの事を主として大島青松園(ハンセン病療養所)の機関誌「青松」に先生が連載されたものを、たまたま読む機会を得たことにはじまる。「回春病院のことども」と題されたその連載のコピーを、私をかわいがっていただいた幼稚園の恩師市川先生から「あなたに役立ちそうだから」といただいたことがきっかけとなった。


頂度その頃、両女史の顕彰事業の準備がはじめられた時期でもあった。澤先生の想いの中で語られているライト女史が、それまで読んだどれよりも鮮明で、そして何故かなつかしくさえ感じられた。

 早速、先生にお電話をして、上京の折りお会いする約束をした。東京ではじめて直接お会いした時には、何かずっとおつき合いをしていたような気持ちになっていた。ライト女史を介しての共通のかかわりのある親近感が、なおさらそのように感じさせたのだろう。


この時に同席したのが熊本日日新聞の丸野真司記者である。彼とは福祉の問題をとおして以前から交友があった。リデル、ライト女史の顕彰事業をすすめるにあたっても、いろいろと相談をする機会があった。澤先生との出会いの前頃には、両女史のことを表現することに関して丸野氏の情熱がなかなか燃えあがらないことに、多少のいらだちが私の中にあったように思う。


澤先生とお会いすることを上有の直前に彼に連絡をした。「いっしょに会おう」…。澤先生と話をすることで、これまで得られたことのない示唆が与えられる予感を感じていたし、丸野記者にもおそらくそのことが伝わったのだろう。他の予定をさしおいていっしょに上京してくれた。


ホテルの和風レストランで先生から初めて直接お聞きした話に、私も丸野記者もひきこまれ、思わず涙ぐんでしまったことが忘れられない。「先生、是非熊本においで下さい」…来熊には先生の御身体の問題もあって、逡巡され、そして御家族の納得をいただくために時間を要した。しかし、何よりもライト女史の真実を伝えるためならという御気持が来熊を実らせることになった。


 リデル・ライト両女史顕彰会の「発起人の集い」にお招きして、講演をお願いした。両女史への想いをふりしぼるような語りは、参加された福島熊本県知事、永野熊本日日新聞社長、三浦文化協会長をはじめとした全員に心からの感動をよんだ。このことが顕彰会のその後の事業、記念館の完成、イギリス大使館の全面的な協力、そしてレディー・ボイド駐日英国大使夫人の両女史伝記執筆へ発展していく契機となった。


澤先生と私とは、直接には三年のおつき合いなのに、まわりの人々からは先生との関係を「昔からのお付き合いでしょう」と尋ねられる。最近ではそのことを肯定することにしている。確かにそれはある意味で事実である。
 澤先生も私もライト女史に抱っこされている。澤先生はライト女史が活動をしていた若き日に、そして私は戦後、ライト女史が熊本に帰ってこられた時に・・。私達は、ライト女史を介してつながっているし、そのことを誇りと感じている。


 何よりも黒髪の地にリデル女史がハンセン病救済活動の第一歩を印して青年日の今、多くの出会いの中で、ハンナ・リデルとエダ・ライトの愛と奉仕の精神が顕彰される機会を得て、多くの人々とともにその精神を共有できるようになったことに感動を覚え、心から感謝したいと思う。

リデル、ライト両女史顕彰会 会長
社会福祉法人リデル、ライト記念老人ホーム 理事長                                  小笠原 嘉祐


 リデル・ライト記念老人ホーム50周年

ハンナ・リデルとエダ・ハンナ・ライトに見守られながら

 

106年前(明治28年)、日本におけるハンセン病救済活動の草分けの一人であるハンナ・リデルは、現在の黒髪の私達の老人ホームの建つこの地に、回春病院を設立した。そしてエダ・ハンナ・ライトはその事業を継承し、昭和16年、回春病院の事業の終焉によってすべての入所者が恵楓園に移送された時までその地にとどまった。


 ハンナ・リデルとエダ・ハンナ・ライトが、ハンセン病救済活動を黒髪の地で行った期間は、明治から第二次大戦に至る日本の近代の歴史の流れの中にある。

 ハンナ・リデルは大日本帝国憲法が発布され、明治政府の基礎が確立されていく時期に、それを支えるエリート養成の機関である第五高等学校の英語教師として、そして英国国教会の宣教師として釆熊した。この地でハンセン病患者に出会い、その救済活動を行うことが神から与えられた使命であると直感した。そして黒髪の地に回春病院を設立し、宣教師を辞して救済活動に専念した。


 日本の近代の中で、障害者差別はむしろ助長され、法のもとでの隔離政策として明確化、具体化された。先年廃止された「らい予防法」はその典型である。
 リデルの患者との出会いによるハンセン病救済活動の中にあった「分かち合い」の精神は、「らい予防法」と基本的に相容れないものであった。


 エダ・ハンナ・ライトがハンナ・リデルから救済活動を引き経いだ時、既に日本は戦争遂行の方向にあり、回春病院の維持は困薙を極めていた。しかし、ライトはリデルの心をそのまま触承し、患者との分かち合いの日々を過ごした。昭和12年、回春病院を訪れたへレン・ケラーは、訪問後「あなたの勇気ある事業に対して心からの親愛の気持ちをおくる」という自筆の書簡を送っている。


 昭和16年2月3日、リデルが9年前(昭和7年)に神に召されたその日に、同春病院は終蔦を迎えた。この日の出来事をライトは「政府は私から愛する患者を奪った」と表現した。終篤=強制解散の理由は

@英国系の経営であったことも含めて訪れた経営困難

Aライト自身に対するスパイ容疑

B「らい予防法」と相容れない回春病院における患者への処遇等があった。

なお、昭和15年7月には本妙寺地区において、「浄化」と称して患者強制収容事件があったという事実も忘れてはならない。リデルとライトの業績を巻きこみながら進んだ日本の近代は、第二次大戦という近代の一つの結論の時点で、回春病院の歴史を押しつぶしたのである。


 エダ・ハンナ・ライトはスパイの汚名を受けたまま心ならずも日本を退去し、オーストラリアに住み、そこで、第二次大戦の終戦を待った。

 ハンナ・リデルがこの黒髪の地に999年の地上権を設定して明確な決意を示した先駆的福祉の歴史は、ここで中断されることはなかった。戦後多数の人々がエダ・ハンナ・ライトはもはやオーストラリアから帰ってくることはないだろうと予想したが、それに反してこの地に昭和23年6月に帰ってきた。そして昭和25年2月26日に永眠し、本人の希望どおり「日本の土」となった。


 このことから戦後のこの地における継承の歴史がはじまる。戦争をはさんだライト不在の間に混乱した資産の処分の問題はありつつも、何よりもリデルとライトの精神をこの地に再び実現することが、心ある人々にとっての課題となったのである。

 その結実が昭和26年9月1日、リデル・ライト記念養老院としての事業の出発点となった。この年は社会福祉事業法が制定された年でもある。

 すでにこの地には、いわゆる「末感染児童」のための養護施設である龍田寮が昭和17年より運営されていた(昭和30年廃止)。


 リデル・ライト記念養老院は、老人福祉法制定以前の社会事業的運営のもとで設立されたものである。したがって、救貧・救護の精神とポランクリズムのもとにあり、これに加えてハンセン病関連の事業を行うことを、その設立時の目標に掲げていたのである。

 その後、40年間の中で、昭和38年の老人福祉法の制定、また昭和45年の社会福祉法人として「らい予防協会」からの独立をへて、養老院は養護老人太−ムとなり、その運営の目的を変更しながら、高齢者の方々、ことに社会的に救蓑の必要な方々のための施設として運営され、独特の家庭的な雰囲気を保ちつづけてきた。


 当時の施設についての私の思い出の中に、ていねいに磨かれつづけすり減った廊下、ふとんがていねいにたたんである4畳半の畳の居室、そして冬には火鉢で暖をとるお年寄りの姿がある。


 昭和63年、黒髪及びその周辺地域が熊本市の中でも、特に老人人口が多い地域であることから、国が提示していたゴールドプランをはじめとした老人保健・福祉についての方向転換をうけとめ、立地条件を活かして地域・在宅ケアへの展開を含めた方針を決定した。


 この方針のもとで基礎となる施設は、これまでの養護老人ホームに加えて、新たにショートステイ機能を併せもつ特別養護老人ホームを設立し、さらに地域・在宅機能の中核としてのデイサービスセンターを設置することにした。なお、養護老人ホームは全室個室構造とした。

 我々が新たな施設の完成によって掲げた目標は以下の4点である。

@地域・在宅福祉を見すえた施設サービス

A地域に開かれ、地域ととけあう施設づくり

Bノーマライゼーションが具体的に実現される施設づくり

Cリデル、ライト両女史の精神の触承

 平成3年4月1日、デイサービスセンター(B型)「ユーカリが苑」を一足早く関所した。

そして平成3年6月10臼、特別養護老人ホーム「リデルホーム」の施設設置許可書の交付をうけて、6月11日より入所がはじまり、6月末までに50名の利用者の入居が完了した。


これと同時に養護老人ホームは「ライトホーム」として、50名定員で再出発した。

 新装なった特別養護老人ホームと養護老人ホームへの入居までのほぼ10ヵ月の問、それまで養護老人ホームに入居されていた利用者の皆様には、仮園舎等での分散した不自由な生活をお煩いすることになり、職員も困難な状況の中でその体制をよく支えて乗り切った。

この完成の年の9月に、あの台風19号が直撃したが、もし移転の時期と重なっていたならと肝を冷やしたことを覚えている。 
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 なお、施設の福祉サービスの質的転漁と、特に老人福祉施策の中で避けることのできない老人痴呆対策を積極的に推進するために、平成6年3月よりデイサービスE型を熊本市ではじめて開設し、これと同時に黒髪地区を中心とした地域の在宅サービスのために在宅支援センターを設置した。また、平成7年からはホームヘルプ事業を開始し、国の示した在宅介護サービスの事業の骨格は概ね網羅することができた。


 これまでの我々が引き継ぐべき歴史をふまえながら、「地域ととけあう施設」をめざすことは、地域一在宅ケアという高齢者へのケアの新たな展開の中で必須の条件であるという以上に、歴史の流れの中で生じた問題も解決しなければならないという課題も含まれていた。差別の問題を直視しながら、ノーマライゼーションの理念を提げることは重要な課題であった。


 ノーマライゼーションの具体的な実現は、ハンナ・リデルが70年前に回春病院の中で、すでにスロープを設置したように、バリアフリーに関する誇ることのできる先駆的実践の歴史をもっている。現在の施設の中にもそのことが継承され、「分かち合い」の精神を貰かなければならない。

 我々は「分かち合い」の精神を活かしていくために地域との交流、あるいは様々の障害をもつ人々との交流を重視している。


 毎年行っている「地域ふれあいフェスティバル」はその典型としての交流の場である。

それのみならず、日常的にも多くのボランティア、あるいは実習の人々が多様なかかわり方を介して交流を深めている。特に2〜30年の長期間にわたって継続して交流をもっていただいているボランティアの方々がおられる。心から敬意を表したい。

 また近隣の養護学投、小学技あるいは社会福祉施設、地域作業所等との交流も深めている。


 平成12年度から施行された介護保険制度は我々の事業にとって新たなる時代を作っていくものとなった。平成11年9月1日、リデルホームは一早く居宅介護支援事業所の指定をうけた。また平成12年4月1日をもって特別養護老人ホームをはじめ介護保険にかかわる事業すべてがその指定をうけることとなった。


 介護保険制度とともに、障害者基本法・社会福祉法等の改正は「高齢社会」の中で障害に対するとらえ方を、基本的に転換しなければならない時代にはいっていることを明確にした。21世妃は個人が自立し、尊重された上での「共生の時代」をめざさなければならないことを意識づけた。


 制度の変換については「措置から契約へ」といわれているが、それをふまえて我々が展望しなければならないのは「介護から支援へ」そして「個別性を重視したサービスヘ」の発想の転換が求められる。

 今後の我々の中長期計画の中でこのことを具体化していくことは当然であって、中心的課題として取り組んでいきたい。


 ハンナ・リデルとエダ・ハンナ・ライトは、それぞれの地上での旅を終えた時、この地を自らの永遠の安らぎの地と定めた。その墓所のもとで彼女らに見つめられながら我々は事業を行わなければならない。時代が変わり、制度が変わっても、リデルとライトがこの地に播いた種を、そしてその心を引き継いでいくことが我々には求められている。
リデル、ライト両女史顕彰会 会長 社会福祉法人リデル、ライト記念老人ホーム 理事長                                  小笠原 嘉祐



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