Profile

小笠原嘉祐(おがさわら よしすけ)
昭和22年熊本市生まれ
熊本大学医学部卒業
資格
医師(精神科医)
臨床心理士
日本精神神経学会専門医
現職
特定医療法人社団 ピネル会 ピネル記念病院 理事長
社会福祉法人 リデルライトホーム 理事長
特定非営利活動法人 おーさぁ 理事長
全国社会福祉施設経営者協議会 常任協議員
熊本県社会福祉施設経営者協議会 会長
熊本県介護福祉施設理事会 会長
熊本社会福祉協議会 理事
熊本県精神保健福祉協議会 理事
熊本学園大学 非常勤講師
著書
「熟年スケッチ」
「小笠原的おしゃれにココロジー」
「ノーマリゼーションを社会の事実に」
「愛と奉仕の日々-リデルライトの足跡」
メディア
RKKラジオ パーソナリティー 「おしゃれにココロジー」
毎週日曜 PM6:10〜6:30
g 主な経歴
社会福祉法人 リデルライトホーム理事長
特定医療法人社団ピネル会 ピネル記念病院 理事長
特定非営利法人 おーさぁ 理事長
社会福祉法人 ひまわり福祉会テクニカル工房 理事長
社会福祉法人 わくわく 理事長
リデル、ライト両女史顕彰会 会長
g 社会歴
全国社会福祉施設経営者協議会
g 事業・活動紹介
= ピネル記念病院
人は皆「もっと幸せになりたい」「自分らしく生きたい」 「人と仲良くしたい」「自信を持ちたい」、等々プラス思考で生 きていきたいと願っています。 ところが様々な人間関係の中で、 挫折やコミュニケーションの失敗が起きたり、いろいろなストレ スに耐えられなかったり、願いとはかけはなれた現実があるのも 事実です。 多種多様で複雑な現実社会の中で、ストレスによっ ていろんな反応が起き、実際に心や身体の健康を害してしまうこ とが益々増えています。ピネル記念病院は「自分らしく生きたい」 をテーマにして、傷ついた心を癒すために外来の通院や入院が必 要になったとき、いつでも対応でき、それぞれの症状に応じて治 療や療養ができる環境を創ることを目標にしています。
= リデルライトホーム
19世紀、まだ日本に福祉という概念がなかったころ、リデルは花 見に出かけた本妙寺でハンセン病患者の姿を見ました。時の政府が 何の援助の協力もしない実状に驚き悲しむと共に、この病者の苦し みを救うことを決意します。ハンセン病はもう不治の病では無くな りましたが、そのリデルとライトの精神は福祉のみならず、人間と しての全てに通ずるのではないでしょうか。リデル女史と姪のライ ト女史を記念した当老人ホームは、施設の骨組みである「リデルホ ーム」「ライトホーム」「ユーカリ苑」の三施設を基本とし、地域 ・在宅サービスを結合し、職員一同高齢者サービスをリデル、ライ ト両女史のいたわりと分かち合いの精神を踏まえて、全力で取り組 んでいます。
g ノーマリゼーション・地域づくりに対する想い
人は「心」と「からだ」から成り立っています。健康はこころも からだもバランスをとることで保たれます。精神科は、こころの健 康についてトータルにかかわる役割をになう診療科です。また、障 害を含めた人と人との間にあるバリアー(障壁)をできるだけとり のぞこうとする社会がめざされています。誰でも、どんな障害が あっても普通に生きていくことができるというノーマリゼーション の考え方えを大事にし、個性が尊重されるこころのユニバーサルデ ザイナーをこころがけていきたいと思います。
19世紀、まだ日本に福祉という概念がなかったころ、リデルは花見に出かけた
本妙寺でハンセン病患者の姿を見ました。時の政府が何の援助の協力もしない実
状に驚き悲しむと共に、この病者の苦しみを救うことを決意します。
ハンセン病を救済するための病院をつくることを決意したリデルは、英国の親戚、
友人知人に、計画を打ち明けて賛同と援助を求めました、中には敬意をもって援助
した人もすくなくありませんでしたが、多くの者は、1外国人女性の力に及ぶこと
ではないと反対しました。みずからの使命を確信していたリデルは、私財を投じて
この事業にとりかかったのです。
ついに明治28年11月12日、病院が開設。名前は、暗黒の人生に再び希望の春
を回り来させることを念じて、回春病院と命名されました。しかし日露戦争で日本
が勝利すると「日本は強国になったので今後は応援する必要はない」と 送金が中
止され、リデルは非常に困り、時の総理大臣大隈重信に、援助を求めました。大隈
は渋沢栄一と相談して、日本橋の銀行会館で、画期的なハンセン病救済講演会を開
きました。この時、リデルは、「日本が駆逐艦一雙の費用を転用すれば、この国の
ハンセン病問題は解決する」と提言したことは有名であります。
姪のライトは、伯母リデルを助けるため大正12年来熊、昭和7年リデル永眠後は院長
となり、リデルの意思を継承し、院内は勿論院外においてもハンセン病救済事業に
寝食を忘れて努めます、戦時中数々の迫害をうけ国外追放されながらも戦後すぐ帰
国して日本の土となりました。
ハンセン病はもう不治の病では無くなりましたが、そのリデルとライトの精神は福
祉のみならず、人間としての全てに通ずるのではないでしょうか。
神の思し召しに恵まれて-エダ・ハンナ・ライト女史没後50年記念誌-
発行 リデル・ライト両女史顕彰会
定価500円
お問い合わせ:リデル・ライト両女記念館096-345-6386
2000年(平成12年)2月26日、リデル、ライト両女史顕彰会と社会福祉法人リデル、
ライト記念老人ホームは、回春病院第2代院長であったエダ・ハンナ・ライト女史の
昇天50年祭を行なった。2001年にはリデル、ライト記念老人ホームの創立50周年、
さらに2002年にはハンナ・リデル女史昇天70年を迎える。我々の受け継いでいかな
ければならない先駆的な歴史のうち、ミレニアムをまたぐ一連の重要な節目の第一
段階の行事であった。
エダ・ハンナ・ライト女史は、伯母ハンナ・リデル女史の精神をそのまま引き継
いで回春病院を運営した。その人柄はおだやかで、慎しみ探かった。事ある時に
は常にリデル女史の心を確かめて「伯母ならばどうするのか」を口癖にして決断
をしていた。しかし一方では強い信念とともに激しい気性が秘められていたよう
にも思える。
このことは、昭和16年2月3日の回春病院閉鎖の折に残されたライトメモに表現さ
れている。「政府は私から愛する忠者を奪い去った。5時には病院は空っぼだ!」
すべての患者さんが九州療養所に連れ去られた夕方5時、いつもの習慣で病院を巡
回していたライト女史は、誰もいなくなった病室を目の前にして、改めて激情が
走り、たたきつけるようにその気持ちをメモに残したのだと思う。
失意の中で、そして開戦直前であり、ほとんどすべての英国人が国外退去をして
いる中で、ライト女史は心ならずもオーストラリアに去った。しかし戦後ライト女
史が再び回春病院跡地に住むことになるとは、おそらくほとんどの人は思っても見
なかったことだったろう。彼女は日本に、そしてこの地に帰ってきたのである。も
う一度くり返すが「帰ってきた」のである。自分の住むべき家に、そして伯母ハン
ナ・リデルと愛する患者さんが眠る納骨堂の側に…。帰ってきたという意識の強さ
故に、その家の中の荒れた有様、失われた家具穎を見て、ライト女史はいつになく
怒りを顕わにされたという。彼女はすでに78才だった。
ライト女史は帰国するにあたってオーストラリアのパースで「日本の土になるた
めに帰る」のだと彼女の決意を述べている。この逸話については5年前に昇天された
沢正雄先生が100年祭記念行事で行なわれた講演「ライト先生の祈りと心」に詳しく
述べられ、当時の記念祭の発起人の方々に深い感銘を与えた。熊本には数多くの外
国人先駆者が来訪しているが、「日本の土」になることを決意し、この地を終蔦の
地とした人は決して多くはないことを是非錨記していただきたい。
さて今回の記念誌には、その冒頭にライト女史の「遺言」と「お別れのことば」
及び「絶筆」を掲げる。特に遺言は死の一年前1949年2月に記されたものである。回
春病院の閉鎖によって、その後リデルから継承した財産は処分されているのだが、
ライト女史は意識的であるのかどうか、ともかく財産として自分の手から離れてい
ることについては無視している。あるいは気づいていないのかもしれない。
彼女の認識では、病院が閉鎖された後、戦争の為に日英が敵対状況になった為に
追放されて一時退去したのであり、戦争後、平和をとりもどした時に最愛のリデル
女史と患者さん達のもとに帰ってきて、再びリデルから引き継いだ地に住みはじめ
たのである。決して引き渡された土地に仮住まいをしたのではない。もちろん財産
処理については現在は社会福祉法人に引き離がれ、法的には解決しているのだが、
ライト女史はこの遺言を通じて、この地は自分に正当に維承されつづけていること
を表現したのだといえる。
つまり、リデル女史が999年の地上権ということを通じて、半永久的にこの地で
福祉の先駆的実践を行なう決意を確かなものとしたことを受け継いで、今後その基
盤をゆるがせてはならないことをこの遺言を通じてライト女史は訴えているのであ
り、そのこころを我々はきちんと受け継いでいかなけれはならない。そしてリデル
女史とライト女史は、その基本にキリスト教精神、なかでも隣人愛−「分ち合って
生きることのすばらしさ」をすえて、事業を行なっていたことを明確にしておきた
い。
愛と奉仕の日々-リデル・ライトの足跡-
発行 リデル・ライト両女史顕彰会
定価500円
お問い合わせ:リデル・ライト両女記念館096-345-6386
澤正雄先生は、リデル・ライト両女史の顕彰事業にとって、かけがえのない真実の
「語り部」である。特に「愛と奉仕の精神」に貫かれた女史の思い出が、先生のク
リスチャンとしての信仰を横糸として織りなす綾のごとく語られる時、それは感動
をもって伝わってくる。リデル・ライト両女史顕彰会の準備をはじめる頃には思い
もよらなかったほど大きな拡がりをもつ事業になった過程で、先生こそ最大の功労
者であることは否定できない。
澤先生が、ライト女史の遺言の中に記されている人物の一人であることは私の
記憶の中にあった。しかし、直接に先生との出会いのきっかけとなったのは、ラ
イト女史との交わりの事を主として大島青松園(ハンセン病療養所)の機関誌「
青松」に先生が連載されたものを、たまたま読む機会を得たことにはじまる。「
回春病院のことども」と題されたその連載のコピーを、私をかわいがっていただ
いた幼稚園の恩師市川先生から「あなたに役立ちそうだから」といただいたこと
がきっかけとなった。
頂度その頃、両女史の顕彰事業の準備がはじめられた時期でもあった。澤先生の
想いの中で語られているライト女史が、それまで読んだどれよりも鮮明で、そし
て何故かなつかしくさえ感じられた。
早速、先生にお電話をして、上京の折りお会いする約束をした。東京ではじめ
て直接お会いした時には、何かずっとおつき合いをしていたような気持ちになっ
ていた。ライト女史を介しての共通のかかわりのある親近感が、なおさらそのよ
うに感じさせたのだろう。
この時に同席したのが熊本日日新聞の丸野真司記者である。彼とは福祉の問題を
とおして以前から交友があった。リデル、ライト女史の顕彰事業をすすめるにあ
たっても、いろいろと相談をする機会があった。澤先生との出会いの前頃には、
両女史のことを表現することに関して丸野氏の情熱がなかなか燃えあがらないこ
とに、多少のいらだちが私の中にあったように思う。
澤先生とお会いすることを上有の直前に彼に連絡をした。「いっしょに会おう」
…。澤先生と話をすることで、これまで得られたことのない示唆が与えられる予
感を感じていたし、丸野記者にもおそらくそのことが伝わったのだろう。他の予
定をさしおいていっしょに上京してくれた。
ホテルの和風レストランで先生から初めて直接お聞きした話に、私も丸野記者
もひきこまれ、思わず涙ぐんでしまったことが忘れられない。「先生、是非熊
本においで下さい」…来熊には先生の御身体の問題もあって、逡巡され、そし
て御家族の納得をいただくために時間を要した。しかし、何よりもライト女史
の真実を伝えるためならという御気持が来熊を実らせることになった。
リデル・ライト両女史顕彰会の「発起人の集い」にお招きして、講演をお願い
した。両女史への想いをふりしぼるような語りは、参加された福島熊本県知事、
永野熊本日日新聞社長、三浦文化協会長をはじめとした全員に心からの感動をよ
んだ。このことが顕彰会のその後の事業、記念館の完成、イギリス大使館の全面
的な協力、そしてレディー・ボイド駐日英国大使夫人の両女史伝記執筆へ発展し
ていく契機となった。
澤先生と私とは、直接には三年のおつき合いなのに、まわりの人々からは先生と
の関係を「昔からのお付き合いでしょう」と尋ねられる。最近ではそのことを肯
定することにしている。確かにそれはある意味で事実である。
澤先生も私もライト女史に抱っこされている。澤先生はライト女史が活動をして
いた若き日に、そして私は戦後、ライト女史が熊本に帰ってこられた時に・・。私
達は、ライト女史を介してつながっているし、そのことを誇りと感じている。
何よりも黒髪の地にリデル女史がハンセン病救済活動の第一歩を印して青年日の
今、多くの出会いの中で、ハンナ・リデルとエダ・ライトの愛と奉仕の精神が顕彰
される機会を得て、多くの人々とともにその精神を共有できるようになったことに
感動を覚え、心から感謝したいと思う。